映画 赦し レビュー 第2章 :「ありがとう」の不在──共感が欠けた母・澄子の内面 【ネタバレ注意】

【ネタバレを含みます】
本記事では、映画『赦し』の登場人物や象徴的なシーンについて触れています。物語の印象を大切にされたい方は、鑑賞後にご覧いただくことをおすすめいたします。
出典:YouTube / A FILM BY ANSHUL CHAUHAN 公式チャンネル
澄子が直樹からコーヒーを受け取りながら、言葉を交わさない場面があります。その沈黙には、夫婦のあいだに長く蓄積された感情の断絶が静かに浮かび上がっていました。澄子の手はわずかに震え、直樹はその沈黙に戸惑いながらも声をかけられずにいます。本章では、「ありがとう」の不在という小さな出来事から、この家族に横たわる共感の欠如について掘り下げていきます。
第2章:ありがとうの不在──共感が欠けた静かな断絶
ほんの少しのやりとりはあります。
けれど、それは心を動かすものではなく、もはや“習慣”に近い。
澄子は、差し出されたカップを無言で受け取り、感謝の言葉を口にすることもなく、ただ机の上に置く。
注がれたコーヒーの温度だけが、ふたりの間に残されたわずかなぬくもりのように見えました。
前の章を読む:
▶第1章:映画『赦し』の核心へと導く視点

感謝が省略されていく家庭
年月が流れるごとに、感謝の言葉は少しずつ失われ、やがてそれが当然のように感じられる空気が漂います。
食卓での会話はほとんどなくなり、朝食を同じ部屋で食べるだけの日々が続く。
日々のやり取りから感情の交流は薄れ、ただ無機質に生活が続いていく。
それは、まるで時間だけが過ぎていくような印象を与えます。
澄子の沈黙の背後には、他人と感情を交わすことへの不安や、心の疲れ、あるいは諦めが深く根付いているように感じられます。
彼女の言葉の不在は、もはや彼女自身が“無関心”になったのではなく、感情の交流が断絶し、そこに立ち尽くすしかないのだということを物語っているかのようです。

「感情がない」のではなく、「関心がない」
澄子は無感情なのではなく、他人の感情に対して関心が薄い人物として描かれているように思えます。
娘・恵未との関係も劇中ではほとんど描かれず、恵未がかつて同級生に対して加害的な言動をとっていたことも、澄子は周囲から指摘されるまで気づいていなかったようでした。
その無自覚さは、母としての関係性がいかに希薄だったかを静かに物語っているように感じられます。
劇中では、恵未が抱える戸惑いや孤独も、母の無関心の前では孤立して映る場面があります。
無言の中で互いにすれ違う時間が積み重なり、家族の間に小さな亀裂が広がっていくのです。
共感の欠如と愛着理論
心理学の視点から見ると、親の共感力は子どもの感情の発達に大きく影響します。
たとえば、ジョン・ボウルビーの愛着理論では、親の感情的な応答性が乏しい場合、子どもは他者の感情を読み取る力が育ちにくくなるとされています。
澄子の沈黙は、ただの“無関心”ではなく、そもそも「共感力が育まれなかった」家庭構造そのものを反映しているのではないか──そんな印象を受けました。
何気ない「ありがとう」の不在は、実は家族関係の崩壊を静かに、そして確かに語りかけているようにも思えます。

小さな出来事が語る空白
一杯のコーヒーを渡す、あるいは「ありがとう」と言う。
些細なやりとりの中で、互いの存在を認め合い、感情を交換する。
それがなくなると、表面的には穏やかでも、心の奥では確実に距離が生まれるのです。
澄子の沈黙、直樹の戸惑い──この小さな断絶の積み重ねこそ、家族という単位の中で最も深く、静かに広がる亀裂の象徴と言えるでしょう。
次章予告
言葉がないことが語ること。
日常の中で「ありがとう」が交わされないこと。それは、この家庭において感情の交流がどれほど薄れてしまったかを如実に示しています。
澄子の沈黙が物語るのは、言葉以上に深い、感情の空白なのかもしれません。
次章では、失われた時間の中で生まれる後悔や赦しの見えない道をたどります。
次の章を読む:
▶ 第3章:失われた時間の中で──赦しの見えない道
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