ヒューマンドラマ

映画 赦し レビュー 第10章:社会の無関心と「止められなかった責任」──誰もが問われる罪【ネタバレ注意】

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【ネタバレを含みます】
本記事では、映画『赦し』の登場人物や象徴的なシーンについて触れています。物語の印象を大切にされたい方は、鑑賞後にご覧いただくことをおすすめいたします。

出典:YouTube / A FILM BY ANSHUL CHAUHAN 公式チャンネル

第10章:社会の無関心と「止められなかった責任」──誰もが問われる罪

語られたときには、もう手遅れだった過去。
それがいじめという形で、夏菜の口から静かに明かされるのは、物語の終盤に差しかかってからのことです。けれども、そこで私たちが抱くのは、単純な同情ではなく、むしろ言葉を失うような戸惑い──どうして、誰も止められなかったのだろうという、重い問いかけなのかもしれません。

前の章を読む:
第9章:語られた言葉の空虚──形式と“赦し”のすれ違い

はじめから読む:
第1章:序章──映画『赦し』の核心へと導く視点

語られたいじめの記憶──その背景にあった孤独の軌跡

再審の場で、夏菜が告白したいじめの記憶。それは単なる背景ではなく、彼女が殺人という行為に至るまでの孤独な軌跡を照らし出します。

けれども、その深刻さに見合った対処や介入が、なぜ一度としてなされなかったのか──という疑問は、観客の胸に静かに突き刺さります。

傍観と沈黙の罪──“何もしなかった”という暴力

加害の中心にいた者たちだけでなく、取り巻きや傍観者、「空気に流された」と語る同級生たちもまた、なぜ止めなかったのか。あるいは、なぜ逃げなかったのか。そうした“何もしなかった存在”こそが、ある場面では最も冷たく映ります。

悪意がなかったという言い訳が、どこかで恐ろしい響きを持ち始めるのです。

見て見ぬふりをした大人たち──沈黙の連鎖と制度の機能不全

そして、見落としてはならないのが、大人たちの沈黙です。教師たちは、本当に何も知らなかったのでしょうか。それとも、「関わりたくなかった」「騒ぎを大きくしたくなかった」という理屈で、見て見ぬふりをしたのでしょうか。

映画は、この問いに対して明確な答えを与えません。ただ、語られなかった分だけ、観客自身の中に「問いの余白」を残します。

それは“他人事”ではない──観客としての私たちの責任

視点をさらに広げれば、そこには社会そのものの機能不全が見え隠れします。制度も支援も、声を上げる仕組みも──誰一人、彼女をすくい上げられなかったという事実。その連鎖の末に、あの夜の事件は起きたのだとすれば、この物語は決して“他人事”ではいられません。

『赦し』は、単純な善悪で裁く物語ではありません。むしろ、“誰かが手を差し伸べていれば”という小さな仮定が、どれだけの未来を変え得たか──そんな静かな問いかけを通じて、観る者それぞれに責任の所在を問いかけてくるのです。

もしも沈黙が暴力の温床になるのだとしたら──この映画の中には登場しない「私たち観客」の沈黙こそが、最も根深い問いを孕んでいるのかもしれません。


次章予告

次章では、「語ること」と「酔うこと」が映し出す、人の弱さとずるさを見つめます。
“赦し”を語りながら、語りきれないものを抱える人々──その沈黙の奥にある、ほんとうの姿とは。

次の章を読む:
第11章:演出としての“弱さ”──語り、酔い、立ち位置の曖昧さ

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このレビューを書いた人
高瀬 楓(たかせ かえで)
高瀬 楓(たかせ かえで)
映画と余韻のブロガー。  週末19時に更新中。
はじめまして。映画ブロガーの高瀬 楓(たかせ かえで)と申します。 「映画の余韻にじっくりと浸りながら、自分の視点で感じたことを丁寧に言葉にしたい」との思いから、映画レビューサイト《Silverscreen Pallet》を運営しています。 心に残るシーンやテーマを深く味わいながら、読者の皆さまの記憶に響くような記事をお届けできたら嬉しいです。

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