映画 赦し レビュー 第13章:凍結された父性──“やり直し”に執着する理由【ネタバレ注意】

【ネタバレを含みます】
本記事では、映画『赦し』の登場人物や象徴的なシーンについて触れています。物語の印象を大切にされたい方は、鑑賞後にご覧いただくことをおすすめいたします。
出典:YouTube / A FILM BY ANSHUL CHAUHAN 公式チャンネル
第13章:凍結された父性──“やり直し”に執着する理由
人はなぜ、失われた関係に手を伸ばしてしまうのでしょうか。 それがもう戻らないと分かっていても、過去にすがりたくなる瞬間がある。 終盤、克の「やり直さないか」という問いかけには、そんな痛々しい未練と執着が滲んでいました。
前の章を読む:
▶ 第12章:形式の仮面──語られる謝罪、語られない本音
はじめから読む:
▶ 第1章:序章──映画『赦し』の核心へと導く視点
「父親だった自分」を維持するための呼びかけ
本作の終盤、克が澄子に「やり直さないか」と語りかける場面は、再出発の誘いに見えながら、その言葉の奥に複雑な動機が潜んでいるように思えました。
彼は本当に、元妻と人生をやり直したいと願っているのでしょうか。それとも、彼が求めているのは、“父親だった自分”を維持するための拠り所なのではないでしょうか。
共に悲しんだ“証人”を失いたくないという執着
澄子はすでに新たな家族を持ち、「いまは家族がいる」と明確な一線を引いています。それでも克は、まるでその線を消そうとするかのように食い下がります。その姿には、“喪失をまだ受け入れきれない男”の孤独と葛藤が浮かび上がります。
澄子は「恵未の母」であるだけでなく、「娘を亡くした母」としての時間を克と共有した、唯一の“証人”でもある。その彼女との絆を手放すことは、克にとって「父親だった自分」を失うことと同義なのかもしれません。
つまり克は、「もう父親ではない」という現実に、いまだ折り合いをつけられずにいるのです。
「父親であれた時間」への固執──悲劇の現在形として
娘の死は、彼にとって“過去を封じる悲劇”ではなく、“父親だった自分”を実感できる最後の手がかり。その記憶を「温かな思い出」へと昇華できず、「悲劇の現在形」として持ち続けようとする姿勢には、アイデンティティの崩壊を避けようとする切実な防衛が見え隠れします。
さらに、澄子が前を向いて歩んでいることを知りながら再接近しようとする克の態度には、“取り残された者”の孤独と、癒えてゆく他者への微かな嫉妬すら感じられます。
「喪失を抱えているのは自分だけだ」「自分こそが最も傷ついている」──そう思い込むことで、彼は“娘を亡くした父親”という役割の中に自分を閉じ込めてしまっているのです。
前を向けない理由──「父性の喪失」という別れ
このように克の言動は、「喪失の凍結」でもあり、「父親像の固定化」でもあるように思えます。
前を向くことよりも、過去にとどまり続けることを選んだ彼の足元には、「父親であり続けるために悲劇を手放さない」という深い哀しみと矛盾が、ひっそりと横たわっているのです。
“もう父親ではない自分”を受け入れること──それは、愛情の喪失だけでなく、「誰かの親であれた時間」への別れを意味するのかもしれません。
次章予告
次章では、誰もが手探りのまま進む終幕の裁判に注目します。
形式に飲まれず、本質を見極めようとしたひとつの言葉──その小さな決断が灯した、“人間の正義”について考えます。
次の章を読む:
▶ 第14章:形式を断ち切る一言──ささやかな正義の灯
『赦し』は現在、Amazonプライム・ビデオで視聴可能です。
静かに心に響く余韻を、ぜひご自宅でもゆっくり味わってみてください。
また、繰り返し観たい方やコレクションとして手元に置きたい方には、Blu-rayやDVDの購入もおすすめです。
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