ヒューマンドラマ

映画 赦し COLUMN:「“この子”“あの子”と呼ぶ親たち──言葉ににじむ感情の断絶」【ネタバレ注意】

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【ネタバレを含みます】
本記事では、映画『赦し』の登場人物や象徴的なシーンについて触れています。物語の印象を大切にされたい方は、鑑賞後にご覧いただくことをおすすめいたします。

出典:YouTube / A FILM BY ANSHUL CHAUHAN 公式チャンネル

COLUMN:“この子”“あの子”と呼ぶ親たち──言葉ににじむ感情の断絶

映画『赦し』の中で、克や澄子が娘のことを語るとき、「この子」「あの子」という呼び方が繰り返されます。
私はその言葉に、微かではあるけれど拭えない違和感を覚えました。
──なぜ、彼らは娘の名前を呼ばないのだろう。
その問いが、物語を観終えた後も、心のどこかに残り続けていました。

前の章を読む:
第6章:殺人と赦し──倫理と感情のはざまで

はじめから読む:
第1章:序章──映画『赦し』の核心へと導く視点

名前を避けるという選択

物語のなかで、親たちが子どもを「この子」あるいは「あの子」と呼ぶ場面に、私はふとした違和感を覚えました。
名前ではなく、指示語で語られる存在。──その呼び方は、単なる言葉の選び方以上に、どこか冷たく、微妙な距離を含んでいるように感じられたのです。

本来、親が口にする子どもの「名前」には、愛情や記憶、ぬくもりが宿っています。
それを避け、「この子」「あの子」と言い換える行為は、親子のあいだに潜む感情の溝を静かに示しているようでもありました。

距離を取るための“他者化”

もしかすると、それは喪失の痛みを直視しきれないまま、どうにか心を保とうとする無意識の防衛反応だったのかもしれません。
名前を呼んでしまえば、封じ込めていた感情が一気にあふれ出してしまう──そんな恐れが、彼らの言葉の裏にひっそりと潜んでいたようにも思えます。

また、「この子」「あの子」という言葉には、どこか曖昧な“他者性”が漂っていました。
まるで自分の子どもを、いったん自分から切り離して語ろうとするかのように──。
それは、まだ心の中で整理しきれていない感情の揺らぎを映し出していたのかもしれません。

名前が語られないという沈黙

確かな存在だったはずの「名前」を、あえて避けること。
その選択には、言葉にできない痛みと、それでも語ろうとする意思とのあいだにある、微妙な均衡が感じられました。

そして何よりも、その呼び方には、ときおり“まるで他人の物語を語っているかのような”印象さえ漂っていたのです。

それは、赦しきれなかった想いが、今もなお言葉の奥に沈んでいるということの、ささやかで、けれど確かな証でもあったのかもしれません。


次章予告

怒りに満ちた夜を越えても、朝が来るとは限りません。
赦しとは、ときにその不在こそが、声なき形を持ちます。

澄子の涙と、言葉を拒んだ沈黙──
その一滴と、その静けさが映し出していたのは、赦せなかった心の底でした。
語られなかった赦し、語ることさえできなかった赦し。
その曖昧な輪郭に、私たちは何を見出せるのでしょうか。

次の章を読む:
第7章:“赦し”を巡る沈黙──涙と語られなかった言葉たち

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このレビューを書いた人
高瀬 楓(たかせ かえで)
高瀬 楓(たかせ かえで)
映画と余韻のブロガー。  週末19時に更新中。
はじめまして。映画ブロガーの高瀬 楓(たかせ かえで)と申します。 「映画の余韻にじっくりと浸りながら、自分の視点で感じたことを丁寧に言葉にしたい」との思いから、映画レビューサイト《Silverscreen Pallet》を運営しています。 心に残るシーンやテーマを深く味わいながら、読者の皆さまの記憶に響くような記事をお届けできたら嬉しいです。

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