「ハーシュ・クチュール〜都会を脱ぎ捨てて〜」を観るべき理由|インフルエンサーと消費社会を問う環境コメディ
今、この映画を観る理由
眩いネオンとブランドバッグが象徴する、華やかさと成功の世界。私たちは日々、何かを“見せる”ことに追われている気がします。でも、その裏で置き去りにしている「本当に大切なもの」はないでしょうか。
この映画は、「映え」と「実感」の狭間でもがく現代の私たちに、そっと問いを投げかけてきます。生活の価値や家族との距離感が揺らぎやすい今だからこそ、心に響く作品だと感じました。
【ご安心ください】
※本記事では、映画の結末や重要シーンの具体的な内容には触れず、雰囲気やテーマ、鑑賞の目安を中心に紹介しています。
※注意:暴力描写、過激な表現、心理的・社会的に敏感なテーマ(家族関係、差別、精神的葛藤など)が含まれる場合があります。苦手な方や未成年の方はご注意ください。

総合まとめ
国内平均星評価:2.5/5
海外平均星評価:3.17/5
※このチャートは、確認できた国内外の評価サイトのスコアをもとに作成しています。
未評価のサイトは平均に含めていません。あくまで参考としてご覧ください。
あらすじ
ファッションに関わる仕事をしながら、さほど名が知れた存在ではないインフルエンサーのパウラ・プラッタ。ある日、母の日キャンペーンのオファーが舞い込み、息子との共演を条件に受ける。しかし息子カドゥは、安定や華やかさではなく、アマゾンの奥地にあるエコヴィラで自然と共に生きる道を選んでいた。撮影のため、パウラはアシスタントと共に密林へ向かう。そこにはブランドやカメラのない、土と風と静寂だけの世界があった――。本作は、「見せる服」で飾られた生活と、「生きるためのリアル」とのギャップを母と子の視点で描く物語。
Prime Video BrasilPerrengue Fashion | Trailer oficial | Prime Video
【ネタバレ注意】
※本記事では、登場人物や象徴的シーンに触れ、私なりの考察や解釈を掲載しています。これより先はネタバレになりますので、物語を楽しみたい方は鑑賞後の閲覧を推奨します。
見せる私」の仮面――主人公パウラの矛盾と脆さ
冒頭、パウラは“映え”と“成功”の象徴だ。洗練された洋服、完璧なスタイル、そして承認欲求に彩られた生活――。けれど、その“見せる私”は、息子や実生活のリアルを置き去りにしている。鑑賞中、私は「もし親が私を商品化したら」と想像し、ゾクリとした。
この映画はその違和感を隠さず映し出す。息子にとって母は“ブランドの広告”のひとつにすぎず、息子の意思や個人としての尊厳は無視されている。――それは、インフルエンサー文化が孕む「自己承認」と「他者消費」の危うさを、あばき出す。
パウラのプライドと虚飾は、都会の光の中でこそ映えるが、密林の原色の前ではあまりに薄く、空虚だ。彼女の高級バッグや華やかなドレスは、まるで仮面。――このズレの痛みこそが、本作の皮肉だろう、と感じた。
ジャングルへ――無加工の世界で見つめ直す「本物の価値」
都会の仮面を捨て、主人公が飛び込んだのは、電波もファッション誌も届かない自然の懐。そこで出会うのは、汗、水、風、土――そして、人々の素朴な暮らし。布一枚、靴一足、食事、笑顔――どれも「飾り」ではなく、「生きるためのリアル」。

このコントラスト描写が、本作をただのコメディに留めず、痛烈な社会批評へと押し上げる。光沢ある服がナチュラルな地に溶け込めず、浮いてしまう。けれどそれは、「名品」だからではなく、「名品をまとっていた人間」がそこにいたから。――この瞬間、観客は「何が本当に似合うのか」を、自分事として考えさせられる。
さらに、ラストに提示される「服の共有事業」のアイデア。それは単なるエコ、ではなく、消費文化へのアンチテーゼだ。捨てられず、誰かの暮らしに受け継がれる服――その循環こそが、映画が導く“新しい価値観”のかたちに思える。
家族を縛る光と、解き放つ森――“親子の価値観のズレ”のリアル
息子 Cadu の選択は、親の希望や世間の成功の枠を外すもの。彼は華やかな未来を捨て、地球と未来を選ぶ。母親パウラは、それを認められず、自分の理想と見栄を押しつけようとする。
しかし、映画は息子を否定するだけでは終わらない。母は混乱と葛藤を経て、「見せる服」ではなく「共有される服」という別の道を提案する。――それは親子の和解でもあり、価値観の再構築でもある。
この描き方は、日本を含む現代社会の家族観や消費観とリンクする。親の押しつける「成功」「安定」が、子どもの個を抑圧する構造。だが本作は、それを乗り越える可能性を示す。読者として、この物語を通じて「親子の境界」と「尊重のあり方」を、改めて考えたくなる。
笑いと軽やかさの中に――批判を受け止めやすくするコメディの力
この映画は、重たいテーマを真正面から描きつつも、決して暗くならない。むしろ、都会のブランド広告と密林のワイルドな日常をテンポよく繋ぎ、笑いと驚きで緩急をつけてくる。
主人公とアシスタントの掛け合い、服と自然のギャップ、不器用さと喜び――それらが「堅苦しさ」を逃れさせ、観客を肩の力を抜いて問題に向き合わせる。私も思わず笑いながら、「これ、ただのコメディじゃないな」と何度も胸を突かれた。
ただし、この軽やかさは裏を返せば、テーマの深さや葛藤の苦しさをやや割愛する面もある。重みと笑いのバランスが、人によっては物足りなく感じるかもしれない。
似合う服とは誰が決める?――ファッション映画としての問い
「ブランドが似合う/似合わない」という価値観は、服そのものではなく、着る人やその背景によって変わる。本作は、それを問う。
都会的な華やかさは確かに羨望を呼ぶ。しかし、それをまとった人の顔から、生き様、価値観、環境との関わりまで含めてこそ「似合う服」が完成するのではないか。
読者のあなたも、自分のクローゼットを開けるたびに、「本当に似合うもの」を、もう一度考えてみてほしい。

本作が映す社会と、私たちの問い――“消費”と“持続可能性”の狭間で
ブランド広告、SNS、消費文化――本作はそれらをエンタメのフィルターを通して映し出す。しかし裏には、環境、資源、共同体、人間関係への問いがある。
「消費=幸福」ではなく、「共有・循環=未来」を提示する。本作のラストのアイデアは、今この時代にこそ刺さる提案だと思う。
もしこの記事を読んでいるあなたが、服や消費、家族、環境、ライフスタイルについて、少しでも疑問を持っているなら――この映画は、小さなきっかけになるはずだ。

今日の色彩:深緑
自然の透明さと再生の象徴
今日のかけら:
「服は“見せるもの”ではなく、“共有するもの”であってほしい」
今日のひとしずく:
「真に似合う服は、人の価値観と未来を映す鏡だ」
12/6(土)公開の『喜びの商人たち〜NYクリスマスツリー商戦〜』
ニューヨークの冬を支える “ツリー売り” の家族たち。日常の仕事の中に、伝統や誇りが息づいています。派手な奇跡ではなく、足元の温度を描くクリスマス。あなたの家のツリーにも、物語があるのでしょうか?
12/7(日)公開の『なんて楽しいクリスマス!』
家族の中で当たり前に思われてきた存在が、置き去りにされた瞬間…その寂しさが物語を動かします。笑いと混乱の中で見えてくる“本当の絆”。ホリデーの喧騒に疲れたとき、誰を思い浮かべますか?

